防災・減災への指針 一人一話

2013年11月06日
住民の避難と要援護者の問題
多賀城市 大代西区長
伊藤 要さん

避難所運営と住民の防災意識を向上させる方法

(聞き手)
区長を務められていて、その時に苦労した事や、印象に残った事はありますか。

(伊藤様)
 自治会の役員がバラバラに、各所に避難してしまったので、訓練したように自治組織を動かす事が出来ませんでした。
津波災害の場合は、組織として十二分に動けないので大変です。
避難所になっている学校に行った時は、そこにいた方に、食事の準備や物資の配布などは、ある程度お手伝いして頂きました。

(聞き手)
それは地区関係なく、みんなで協力したのでしょうか。

(伊藤様)
 そうですね。
大代西区の多くは、一次避難場所となっていた小野屋ホテルに避難しましたが、精油所の火災で、夜中に多賀城駐屯地に緊急移動し、3日程度避難しておりました。
東豊中学校が避難場所だった笠神地区は高台にあって、津波被害はなかったため、笠神地区の方は自宅に戻られた方が多く、本来は、大代西地区の避難場所は多賀城東小学校なのですが、東豊中学校に避難しました。
避難所には、顔を知っている人が多くいたため、手伝ってもらう時にも声掛けをする事ができて、ある程度スムーズに、避難所生活が出来たような気がします。
もちろん、当時は当時で、色々と問題もありましたが、皆さん率先して、避難所が閉鎖するまで毎日、夕方には夕食の汁物を作るなど手分けして手伝っていただきました。
また、トイレ掃除などもしてくれました。

(聞き手)
 当時の対応でうまくいった事、うまくいかなかった事をお聞かせ頂けますか。

(伊藤様)
 大代西区は、防災訓練を毎年やっています。
小野屋ホテルが災害時の一次避難場所になっているので、必ず、そこの駐車場に集まって、それから防災訓練会場に向かい、それぞれの訓練をするようになっています。
そのため、震災時も、小野屋ホテルが一次避難場所だと、皆さん、頭の中に入っていたのでしょう。
訓練に参加していた人は、直感的に理解出来ていましたが、逆に訓練にあまり参加していなかった人の中には、自宅にいて逃げ遅れた人もだいぶいました。
震災以降、避難訓練などには80人以上の方が参加してくれるようになり、防災への関心が高くなりました。
毎年、繰り返し訓練を行うことで、住民の意識も高まり、関心も出てくるのではないでしょうか。

(聞き手)
普段、震災前からイベントやお祭りなどは行っていましたか。

(伊藤様)
 お祭りや盆踊りなどは、うちの地区単独ではしていません。
しかし、大代5地区合同で、柏木神社の「神輿祭り」や、送り盆の時期には「灯籠流し」をして、慰霊祭を行っています。
その時も、住民の方々は大勢参加します。
大代地区は、今でこそ、大代東、大代中、大代西、大代南、大代北という5区に分かれていますが、元々は1つの地区でしたので、住民の繋がりというものも、区域で分断されるということはないのではないでしょうか。
先頃行われた、市の総合防災訓練も、本来は個々の地区で行う事になっていたのですが、大代地区と高橋地区だけは全体で集まって実施しました。
市長が閉会の挨拶で、大代地区が参加者が一番多く、約400人が参加していた、とおっしゃっていましたので、住民同士の繋がりはかなりあると思います。

要援護者の避難の問題

(聞き手)
 大代西区には、古くからいる方と新しく入って来た方はどのくらいの比率なのでしょうか。

(伊藤様)
古い人たちが7割、新しく入って来た方が3割くらいかと思います。

(聞き手)
その中でも、高齢の方などで、一人暮らしをしている方も多いのでしょうか。

(伊藤様)
 一人暮らしの方は4人くらいしかいなかったと記憶しています。
ただ、要援護者を数えてみたところ、31人ほどいました。
その中の数人は、プライバシーを知られたくないので、非常時の助け合いは家族で対応するという方もいます。
災害時の要援護者に対応した防災訓練は必要ではありますが、要援護者の方に訓練に参加して頂くこともなかなか難しく、今後の自主防災組織の課題として、十分に検討しなくてはいけないと思っています。

(聞き手)
今回の避難訓練では、要援護者の方は参加されましたか。

(伊藤様)
 要援護者ではありませんが、足が悪い高齢者の方は参加していました。
 どこの地区でも、要援護者の避難をどうするべきか議論されていますが、まだ答えは出ていません。
プライバシーの関係で、あまり踏み込めないのです。
「どうして私の事情を知っているのか」と、トラブルになる可能性もあります。
また、支援者側の理解も得なくてはいけません。
もし、うまく機能している地域があるならば、そこに行って学びたいと思っています。

減災対策の現状

(聞き手)
 減災対策について詳しく教えていただけますか。

(伊藤様)
 市では、復旧は予定通りに進んでいると言っていますが、大変なところもあると思います。
大代西区の減災関係のインフラ整備などは、多賀城市単独ではなく、県や国が行う部分がだいぶ多いと思います。
減災のために防潮堤を作る事になっていますが、それは県の仕事です。
計画は示されていますが、予算がどうなるかなど、非常に不安なところがあります。

(聞き手)
現在(平成25年11月時点)、防潮堤の建設はもう始まっているのですか。

(伊藤様)
 いえ、まだ計画だけです。
また、汚水処理対策も行われていますが、雨水関係の対策はなかなか進んでいません。
この大代西区、特に、自衛隊多賀城駐屯地前周辺は、雨が降るとすぐに冠水してしまいます。
市の説明では、雨水幹線は全体的に見直しているとのことです。
大代西区の雨水は、丸山ポンプ場に流れ込むようになっていますが、産業道路の下を通している関係で、大きな管径の下水管に整備されていないのです。産業道路の地下はガス管、電気ケーブル、工業用水や上水道などの埋設物が非常に多く、試験掘削だけでも何千万円もの金額が掛かるようです。
お金が掛かるのはわかりますが、それでも下水の整備はするべきと思い、市政懇談会や区長会では、常に提言しています。

震災経験を風化させない

(聞き手)
 今回の経験から、後世に伝えたい、あるいは、お孫さんや若い方たちに伝えて行きたいことは何かありますか。

(伊藤様)
まずは、自分自身の身を守るということです。
例えば、ここの地区であれば、地震が来たら津波も来るということを頭に叩き込んでおかなければいけません。
自身の身の安全を確保してから、他の人を助けにいくべきです。
それと、この経験が風化しないでほしいということです。
人の噂も七十五日というように、文章や言葉で残しても、誰しも時間とともに忘れていってしまいがちです。市では震災記録の映像を作りましたが、それも、物であれば、仕舞った場所が分からないと、忘れられてしまうでしょう。
実際に、孫たちは、数カ月経った頃には「ああ、そうだったね」と、震災時のことを忘れ始めていました。

(聞き手)
 今、お孫さんの話が出ましたが、小さなお子さんには、とても怖い体験だったのではないでしょうか。

(伊藤様)
 そうだと思いますが、1歳の孫は、あれだけ揺れても寝ていました。テレビがひっくり返ったので、孫もどこかへひっくり返ってしまうのではないかと、私の方が心配しました。
その後は、さきほど申し上げた通り、みんなで、小野屋ホテルへ避難しました。

(聞き手)
 避難されていた時に危険に遭遇されましたか。

(伊藤様)
 避難所についたのは、津波到達前のぎりぎりの時間でした。
ここの地区では、自宅から避難所に向かう途中で犠牲になった方はいませんでしたが、会社から帰宅する途中で亡くなった方が3名います。
私の息子は柴田町内に勤めていましたが、地震だったので、すぐ帰宅するよう言われたそうです。ですが、ミーティングをする事になり、津波が来てから解散することになりました。
もし、そのまま帰っていたら、閖上大橋あたりで津波に呑み込まれていたかもしれません。
停電と渋滞の影響で、息子が帰宅したのは、震災翌日の朝でした。
私たちは既に避難していて、自宅は誰もおらず、避難所で会って、お互いに無事を確認できました。
やはり、お互い、顔を見るまでは心配でした。
犠牲になった方は、誰かが来るのを自宅で待っていたような方たちで、自分だけなら逃げ切れたかもしれないという事を聞きました。

信頼関係を築くことが大切

(聞き手)
 区長として、次の区長になられる方に伝えたいことはありますか。

(伊藤様)
 皆さんから任せられて、皆さんを先導する立場になるので、有事に備えた、信頼関係を築いていく事が大切なのではないでしょうか。