(聞き手)
区長を務められていて、その時に苦労した事や、印象に残った事はありますか。
(伊藤様)
自治会の役員がバラバラに、各所に避難してしまったので、訓練したように自治組織を動かす事が出来ませんでした。
津波災害の場合は、組織として十二分に動けないので大変です。
避難所になっている学校に行った時は、そこにいた方に、食事の準備や物資の配布などは、ある程度お手伝いして頂きました。
(聞き手)
それは地区関係なく、みんなで協力したのでしょうか。
(伊藤様)
そうですね。
大代西区の多くは、一次避難場所となっていた小野屋ホテルに避難しましたが、精油所の火災で、夜中に多賀城駐屯地に緊急移動し、3日程度避難しておりました。
東豊中学校が避難場所だった笠神地区は高台にあって、津波被害はなかったため、笠神地区の方は自宅に戻られた方が多く、本来は、大代西地区の避難場所は多賀城東小学校なのですが、東豊中学校に避難しました。
避難所には、顔を知っている人が多くいたため、手伝ってもらう時にも声掛けをする事ができて、ある程度スムーズに、避難所生活が出来たような気がします。
もちろん、当時は当時で、色々と問題もありましたが、皆さん率先して、避難所が閉鎖するまで毎日、夕方には夕食の汁物を作るなど手分けして手伝っていただきました。
また、トイレ掃除などもしてくれました。
(聞き手)
当時の対応でうまくいった事、うまくいかなかった事をお聞かせ頂けますか。
(伊藤様)
大代西区は、防災訓練を毎年やっています。
小野屋ホテルが災害時の一次避難場所になっているので、必ず、そこの駐車場に集まって、それから防災訓練会場に向かい、それぞれの訓練をするようになっています。
そのため、震災時も、小野屋ホテルが一次避難場所だと、皆さん、頭の中に入っていたのでしょう。
訓練に参加していた人は、直感的に理解出来ていましたが、逆に訓練にあまり参加していなかった人の中には、自宅にいて逃げ遅れた人もだいぶいました。
震災以降、避難訓練などには80人以上の方が参加してくれるようになり、防災への関心が高くなりました。
毎年、繰り返し訓練を行うことで、住民の意識も高まり、関心も出てくるのではないでしょうか。
(聞き手)
普段、震災前からイベントやお祭りなどは行っていましたか。
(伊藤様)
お祭りや盆踊りなどは、うちの地区単独ではしていません。
しかし、大代5地区合同で、柏木神社の「神輿祭り」や、送り盆の時期には「灯籠流し」をして、慰霊祭を行っています。
その時も、住民の方々は大勢参加します。
大代地区は、今でこそ、大代東、大代中、大代西、大代南、大代北という5区に分かれていますが、元々は1つの地区でしたので、住民の繋がりというものも、区域で分断されるということはないのではないでしょうか。
先頃行われた、市の総合防災訓練も、本来は個々の地区で行う事になっていたのですが、大代地区と高橋地区だけは全体で集まって実施しました。
市長が閉会の挨拶で、大代地区が参加者が一番多く、約400人が参加していた、とおっしゃっていましたので、住民同士の繋がりはかなりあると思います。